イスラム教には、バクシーシというものがあるそうです。日本語で言うと、喜捨の一種みたいですね。
喜捨というのは、自分から進んで寄付や施しをすることを言います。読んで字のごとくですと書こうと思いましたが、捨てるはちょっと寄付とはイメージとは違いますね。
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喜捨は仏教用語
喜捨という言葉自体は、もともと仏教の用語なのだそうです。ですから、イスラム教のバクシーシを喜捨というのは、多少違和感を感じる人が居るかもしれません。
何にしても、進んで自分の財産を差し出すと言うのは、どんな宗教でも取り入れやすい考え方なのでしょうね。そういう仕組みを取り入れておかないと、宗教団体も運営できないでしょうから。ですから、異なる宗教で喜捨のようなことをやられていても、あまり不思議な感じはしません。
強制力のある喜捨もある
ちなみに、イスラム教の喜捨には、税金的な側面があるのだそうです。というのも、イスラム教の喜捨にはザカートとサダカがあるのですが、ザカートは強制力のある喜捨らしいのです。1
そして、集められたお金は、貧困者の経済的な救済などにあてられるのだとか。これって、完全に税金のシステムですよね。私たちが税を払い、その一部が社会保障に回るのと同じことです。
バクシーシは自発的な喜捨
ちなみに、バクシーシというのは、サダカにあたります。サダカと言うのは、自由意志による喜捨ということです。
ただ、自由意志による喜捨という建前ですが、実態としては社会制度として組み込まれているという感じもあるようですね。お金を持っている人は、チップのように払うのが当然という感覚があるみたいですから。
バクシーシが少な過ぎると、怒る人すらいるのだと言います。どこが自由意志だよって思いませんか。
非イスラム教徒に喜捨を求めるって、どう考えてもスジが通らない
さらに言うと、旅行客だと思うとかなり高めの料金を請求する店もあるのだとか。現地の人にとっては、持っている人が持っていない人に施すのは当然という認識があるわけです。ですから、料金を上乗せしても全く心が痛まないのだとか。当たり前のことをしているという認識なのでしょうね。
でも、冷静に考えてみると、これってかなり変ですよね。というのも、バクシーシというのは、あくまでイスラム教徒としてするわけですよね。となれば、私たち異教徒には全く関係が無いはずです。それにもかかわらず、異教徒でも持っている人が喜捨するのは当然だと考えているのです。
制度化されているザカートならともかく、異教徒が喜捨をするのは当然と考えているのは理解に苦しみます。全くの筋違いとしか言いようがありません。宗教を都合よく利用されているだけのように思いませんか?
どうしてそういう考えが根付いたのでしょうか
もちろん、エジプトがムスリムだけの国なら、国民がそういう考えになってしまうのも分からなくは無いのですけどね。習慣が宗教の本来の教義をゆがめてしまうことは、珍しくないでしょうから。
でもエジプトって、10%は異教徒が住んでいる国なんですよね。バクシーシはキリスト教徒には関係ないって言う話にはならなかったのでしょうか。
考えれば考えるほど不思議です。彼らの都合のいいように解釈されているだけのような気がします。
- 強制力がある喜捨は、徴収なんじゃないかとも思いますが、ここでは深く考えないようにしましょう。 [↩]
とりあえずツアーが楽かなあ
始めてエジプトに行くなら、とりあえずツアーが楽でしょうか。H.I.Sのツアーをチェックする限り、5日間で10万円ちょっとからという感じですかね。もちろん時期にもよるのでしょうけど。
あ、ちなみに、添乗員が同行するプランです。
興味がある人は、チェックだけでもいかがでしょうか。

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